シングルファーザーになった今だからこそ、45歳だったあの頃を振り返ることができます。
45歳を過ぎた頃から、ふと頭に浮かぶフレーズがありました。
「このまま定年まで働くのだろうか。」
「今に不満があるわけではないが、自分が理想とした現実とはだいぶ違うなぁ。」
「若い頃はあんなにアグレッシブだったのに、何だかちょっと寂しいなぁ。」
仕事を覚え、結婚し、子どもが生まれ、住宅を購入し、気が付けば管理職になっていました。
若い頃は仕事が楽しくてしょうがなかったのに、今では責任が増え、家では子どもの教育費や住宅ローンを抱え、毎日をこなすだけで精一杯。
趣味に使う時間も減り、「自分のための時間」はいつの間にか後回しになっていました。
気付けば大好きなパチスロさえ行かなくなっていました。
好きだったことを楽しむ余裕さえなくなり、「仕事をして、家に帰って寝る」。そんな毎日を繰り返していました。
そんな生活が、この先もずっと続くのかなぁと思っていたのです。
特に嫌だったわけではありません。
ところが、45歳のある出来事をきっかけに、私の人生は大きく動き始めました。
それは決して望んでいた出来事ではありませんでした。
でも今振り返ると、あの日が「人生をもう一度考え直す」きっかけだったのだと思います。
この記事は、人生をやり直せた人間の成功談ではありません。
今も試行錯誤を続けながら、一歩ずつ前へ進もうとしている50代の会社員が、自分自身の経験を書き残した記録です。
もし今、仕事や家庭、将来への不安を抱えながら毎日を過ごしている方がいたら。
コーヒーでも飲みながら、少し肩の力を抜いて読んでいただけたら嬉しいです。
第1章 人生は、このままでいいと思っていた
45歳を過ぎた頃の私は、世間一般で言えば、ごく普通のサラリーマンだったと思います。
地方の営業所で管理職を任され、部下をまとめながら毎日仕事に追われる日々。
家には妻と子どもがいて、住宅ローンもある。長男は大学進学を考える年齢になり、長女も高校受験を控えていました。
「男は仕事を頑張ることが、家族を守ること。」
若い頃から、それが当たり前のことと疑うことすらしませんでした。
仕事は嫌いではありませんでした。
むしろ好きだったと思います。
新しい仕事を覚えることも、お客様から信頼されることも、部下が成長していく姿を見ることも嬉しく、気が付けば仕事中心の生活になっていました。
もちろん、家庭を大切に思っていなかったわけではありません。
家族旅行にも行きましたし、子どもの学校行事にもできる限り参加してきました。
私は、「仕事ばかりの父親」ではなく、「家庭には仕事を持ち込まない父親」でありたいと思っていました。
だから家では会社の愚痴を言うこともほとんどありませんでした。
それが家族への思いやりだと、本気で信じていたのです。
ただ、その頃の私は一つのことに気付いていませんでした。
仕事に全力を注ぐ一方で、自分自身の時間が少しずつなくなっていたことです。
休日になれば楽しみにしていたパチスロにも、いつしか足が向かなくなっていました。
「忙しいから。」
「大切な家族が待っているから。」
「可愛い子どもたちの笑顔が何より大事。」
自分の時間がない寂しい思いはありましたが、それほど苦ではありませんでした。
世の中は、新型コロナウイルスの感染拡大で、誰もが先の見えない不安を抱えていました。
会社も家庭も、それまで当たり前だった日常が少しずつ変わり始めていました。
もちろん、私もその一人です。
それでも当時の私は、まさか自分の人生そのものが大きく変わることになるとは、想像もしていませんでした。
私は、この生活が定年まで続いていくものだと、本気で思っていたのです。
第2章 良き父親を目指す一方で、自分自身を見失っていた
仕事も家庭も、それなりに順調でした。
だから、「人生を変えたい」と思ったことはそんなにありませんでした。
ただ、振り返ってみると、小さな変化は少しずつ起きていたのだと思います。
休日は家族との時間を優先し、仕事の日は朝から晩まで会社のことを考える。
それが当たり前になり、自分のためだけに時間を使うことは、ほとんどなくなっていました。
もちろん、それほど不満はありませんでした。
子どもたちが笑ってくれる。
家族が元気でいてくれる。
それだけで十分幸せだと思っていました。
だから、自分のことはそれなりに時間が経って、子どもたちが成長した後でもいいかな。
そう考えるようになっていました。
でも、今振り返ると、その頃の私は「自分自身」と向き合う時間も失っていたのかもしれません。
好きだった趣味も、少しずつ遠ざかり、休日も「何をしたいか」ではなく、「何をしなければならないか」で動くようになっていました。
それが大人になるということだと思っていました。
家族のために働き、家族のために時間を使う。
それが父親として当然の姿だと思い込んでいたんだと思います。
だから、この頃の私は、自分の人生について考えることはなく、ある意味、日々を淡々と過ごすロボットのようだったと思います。
良き父親になろうと必死だった反面、自分自身の気持ちには、ほとんど目を向けていなかったのだと思います。
ただ、こんな生活が幸せであり、これから先も続いていくものだと思っていました。
第3章 長男からのSOS
それまで私は、単身赴任をしながら家族と離れて暮らしていました。
家族と離れて暮らす寂しさはありましたが、それも仕事だから仕方がない。
子どもたちのためにも、今は頑張るしかない。
そう自分に言い聞かせながら毎日を過ごしていました。
もちろん、離れていても家族のことはいつも気になっていました。
時間を見つけては電話をしたり、帰省した時には子どもたちの様子を見たり。
父親としてできることは精一杯やっているつもりでした。
そんなある日、長男の様子に違和感を覚えるようになりました。
最初は、本当に小さな違和感でした。
思春期だから。
受験も近いし、反抗期なのかもしれない。
そう考えていました。
だから、その時は深く考えることはありませんでした。
でも、時間が経つにつれて、その違和感は少しずつ大きくなっていきました。
電話越しでも分かるほど元気がなく、以前のような明るさが感じられません。
父親として、「何かがおかしい。」
妻に確認しても、
「そんなことはないと思う。考えすぎでは?」
と返ってくるだけでした。
余計な心配をしたくなかった私も、そう思い込もうとしていたように思います。
しかしながら、そんな嫌な感覚だけは強く残っていました。
仕事をしていても、頭の片隅にはいつも長男のことがありました。
営業所長として責任ある立場を任されていましたが、それ以上に私は父親でした。
このまま単身赴任を続けていて、本当にいいのだろうか。
そんな思いが日に日に強くなっていきました。
そんな不安を抱えていたある日、その出来事は突然起こりました。
学校で担任の先生から注意を受けた長男が感情を抑えきれず、暴言を吐いて学校を飛び出してしまったのです。
その時は、たまたま家に遊びに来ていた義父が長男を落ち着かせてくれました。
その話を聞いた瞬間、私は「一番心配していたことが起きてしまった」と感じました。
悩んだ末、私は会社に単身赴任の解除をお願いする決断をしました。
会社には迷惑を掛けることになります。
管理職という立場で、自分の都合を優先することへの葛藤もありました。
それでも、父親として今一番大切なのは、長男のそばにいることだと思ったのです。
私がそばにいることで長男が落ち着く保証など、どこにもありませんでした。
正直、自信もありませんでした。
それでも、父親である私がそばにいることが、その時できる最善のことだと、一瞬で覚悟を決めました。
あの時の私は、家族がまた以前のような穏やかな毎日に戻れると信じていました。
だからこそ、この決断に迷いはありませんでした。
まさか、この決断が私の人生を大きく変えていくことになるとは、まだ知る由もありませんでした。
第4章 戻れば元に戻ると思っていた
単身赴任の解除が決まり、私は家族のもとへ戻りました。
正直、ほっとした気持ちが大きかったことを覚えています。
これで子どもたちのそばにいてやれる。
家族も以前のような生活に戻れる。
そう信じていました。
もちろん、環境が変わればすぐにすべてが解決するとは思っていませんでした。
それでも、父親が家にいることで、少しずつでも良い方向へ向かっていくのではないか。
そうあってほしい。
今思えば、根拠というより願いに近い気持ちで行動していたのだと思います。
しかし、現実は私が思い描いていたものとは少し違っていました。
子どもたちの様子は以前と何ら変わらず、長男もそれ以降、感情が溢れ出して自分でコントロールできなくなるようなことはありませんでした。
そのことには少し安心しました。
しかし一方で、夫婦間の空気には、どこか言葉では説明できない重さがありました。
以前と比べても会話の量は減り、妻は私が家にいる土日に仕事を入れるようになります。
私との時間を避けているのではないか。
そんなふうに感じる場面が、少しずつ増えていきました。
家族のために戻ってきたはずなのに。
妻も喜んでくれると思って決断したはずなのに。
そんな思いもありましたが、一時的なものだろうと自分に言い聞かせていました。
しかし時間が経つにつれて、焦りのような気持ちは少しずつ大きくなっていきました。
それでも私は、「時間が解決してくれる」と信じようとしていました。
家族だから。
夫婦だから。
親子だから。
きっと乗り越えられる。
そう思い続けていました。
でも今思えば、その頃の私は、目の前で起きている現実を受け止めきれていなかったのだと思います。
受け止めたくなかった、と言った方が正しいのかもしれません。
第5章 私より、子どもたちのことが心配だった
単身赴任を終えて一年ほどが過ぎた頃には、妻との関係は以前とは大きく変わっていました。
会話は必要最低限になり、一緒にいてもどこか距離を感じる毎日でした。
私自身も、「このまま夫婦としてやっていけるのだろうか」と考えることが増えていました。
正直に言えば、離婚という選択肢が頭に浮かぶことも少なくありませんでした。
そんなある日、妻から言われました。
「大切な話があります。」
その言葉を聞いた瞬間、「離婚の話だろうな」と直感しました。
驚きはありませんでした。
むしろ、「やはりそうか」という気持ちと、ちょっと変ですが、ホッとした思いがありました。
このまま仮面夫婦のような関係を続けることに、意味を感じてはいなかったからです。
私自身も、一度きちんと話し合わなければいけないと思っていましたし、離婚という選択肢を考えていたのも事実です。
でも、その瞬間、私の頭に最初に浮かんだのは、
「子どもたちは、悲しむだろうな。」
ということでした。
長男は落ち着きを取り戻していましたが、何が引き金になるか分かりません。
長女も多感な時期を迎えていました。
離婚そのものよりも、子どもたちが受ける影響の方が、私にははるかに大きな問題でした。
夫婦のことは、大人同士で向き合い、答えを出すしかありません。
でも、子どもたちは違います。
親が決めたことを、自分ではどうすることもできません。
だから私は、自分が傷つくことよりも、子どもたちの心だけが心配でした。
第6章 父親として譲れなかったもの
妻から離婚の話を切り出されてから、私たちは何度も話し合いを重ねました。
お互いに感情的になることもありましたが、一つだけ共通していたことがあります。
それは、お互いが子どもたちを大切に思っていたことです。
だからこそ、話し合いは簡単ではありませんでした。
離婚するのか。
財産はどうするのか。
住む場所はどうするのか。
考えなければならないことは、たくさんありました。
よく「離婚は結婚する時の何倍ものエネルギーが必要」と言われます。
本当にその通りでした。
私の場合、そのエネルギーの100%は、
「子どもたちへの影響を最小限に抑えること」
に注がれていました。
何度も話し合いを重ねる中で、私は夫婦関係の修復は難しいと感じていました。
と言いますか、それほど修復に対して積極的ではなかった、という方が正しいのかもしれません。
でも、私の中で絶対に譲れないものが一つだけありました。
それは、やはり子どもたちのことでした。
その頃の私は、夫婦関係よりも、子どもたちのことしか考えられませんでした。
生活は何とかなる。
仕事もある。
どんな環境になっても、自分のことなら乗り越えられる。
でも、子どもたちは違います。
親が決めたことで、これからの人生が大きく変わってしまいます。
だから私は、一つだけ決めていました。
もし子どもたちが私と暮らしたいと言うのであれば、私は絶対に引き下がらない。
それだけは、自分の中で迷いませんでした。
第7章 子どもに背負わせてはいけないもの
調停が始まり、子どもたちの親権についても話し合うことになりました。
妻も親権を希望していました。
私も、当然子どもたちとの生活を望んでいました。
だからといって、「絶対に勝ちたい」と考えていたわけではありません。
私が一番恐れていたのは、子どもたちが**「自分が親を選んだから家族が壊れた」**と思い込んでしまうことでした。
意見聴取は、あくまでも判断材料の一つです。
でも、子どもたちがそんなふうに割り切って受け止められるとは思えませんでした。
親同士の話し合いで決着すれば、子どもたちへの意見聴取は行われないと聞いていました。
だから私は、できればその形で終わらせたいと思っていました。
しかし、お互いの主張は平行線をたどります。
夫婦の問題なのに、何の罪もない子どもたちが、その一部を背負うことになってしまいました。
私が引き下がるべきなのか。
子どもたちの負担を最小限にする方法はないのか。
金銭的な援助だけを続け、親権は元妻へ譲った方が子どもたちの幸せなのではないか。
親として、一人の人間として、これほど考えたことはありませんでした。
やがて、中学三年生だった長男の意見を確認することになりました。
私は、その結果を自分から聞くことができませんでした。
そして意見聴取が終わったあと、どんな顔で接していいのか分からないまま、何を話していいのかも分からず、私は一言だけ、
「すまん。」
と伝えました。
すると長男は、何も言わず、親指を立てて「グッドサイン」だけ返してくれました。
私は、その場で何も言えませんでした。
あの時の光景は、今でも忘れることができません。
嬉しかったかと聞かれれば、違います。
安心したかと聞かれれば、それも少し違います。
一番大きかったのは、申し訳ないという気持ちでした。
本来なら、こんな選択をさせるべきではありません。
「父親と母親、どちらと暮らしたいか。」
そんな問いを、中学生の息子に背負わせてしまった。
その申し訳なさが、一番大きかったのです。
次に押し寄せてきたのは、自責の念でした。
離婚という結果になったのは、大人である私たちの責任です。
それなのに、その影響を一番受けるのは子どもたちでした。
そして最後に、少しだけ安堵がありました。
長男が、自分の意思を伝えてくれたこと。
その思いに応えなければならない。
私は、その時初めて強く思いました。
この子にだけは、「自分が父親を選んだから家族が壊れた」と、一生思わせてはいけない。
その日から私は、長男がそのことで自分を責めることだけは、何があっても防ごうと心に決めました。
第8章 父親として、一つだけ約束したこと
親権が決まり、三人だけの生活が始まりました。
正直なところ、子どもたちがどれほど落ち込むのか心配していました。
でも意外にも、長男も長女も普段と変わらない様子でした。
もちろん、本当に平気だったわけではないと思います。
私に心配をかけまいとしていたのか、それとも少しずつ現実を受け入れようとしていたのか。
今になって振り返っても、本当の気持ちは分かりません。
これまで離婚について話し合ってきた経緯を、子どもたちなりに理解しようとしてくれていたのかもしれません。
そう思うと、今でも胸が締め付けられます。
ある日の夜、いつものように三人で少し遅めの夕食を食べ終え、テレビを見ながら他愛もない話をしていました。
新しい生活にも少しずつ慣れ始め、家の中にも少しだけ笑顔が戻ってきたように感じていました。
そんな時、ふと長女の表情が目に入りました。
どこか元気がありません。
「どうした?」
そう声を掛けると、
「別に……。」
とだけ返ってきました。
でも、父親には分かります。
あの「別に」は、本当に「別に」ではありませんでした。
テレビでは、家族が楽しそうに食卓を囲む場面が流れていたような気がします。
今となっては記憶違いかもしれません。
でも、その時ふと、
「娘は、家族四人で過ごしていた頃を思い出しているのかもしれない。」
そう感じました。
もう、あの頃には戻れない。
その現実を、一番受け止めようとしていたのは子どもたちだったのかもしれません。
私は、「大丈夫だよ。」と言おうとしました。
「幸せにする。」と言おうとしたのかもしれません。
でも、その言葉は口から出てきませんでした。
私は、約束できないことを口にしたくない性格です。
未来のことを軽々しく約束することは、自分にはできませんでした。
だから、その時、自然と口から出た言葉は一つだけでした。
「父ちゃんは、お前たちを裏切るようなことだけは絶対にしない。」
子どもたちは何も言いませんでした。
ただ、その言葉を静かに聞いていました。
あの日の長女の表情は、今でも忘れることができません。
あの日、私は父親として約束できることを、一つだけ口にしました。
あの約束を守れたかどうかは、子どもたちが決めることです。
でも私は、あの日から今日まで、その約束だけは一度も忘れたことがありません。
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