子供の勉強を見てあげたいと思っていても、いつも隣に座って教えられるとは限りません。
私もシングルファーザーとして二人の子供を育てるなかで、勉強を十分に見てあげられないことに、何度も不甲斐なさを感じてきました。
宿題は終わっているのか。
授業についていけているのか。
分からないまま、つまずいているところはないのか。
子供の勉強が気になっていても、親がすべてを把握し、正しく教えることは簡単ではありません。
では、親が直接教えられないとき、子供の勉強にどう関わればよいのでしょうか。
私の場合は、勉強を見ることだけでなく、そのときの子供に合った学ぶ環境を一緒に考えることが、親としてできる関わりの一つではないかと思うようになりました。
長女が中学生のときには公文を選び、高校2年生になってから進学塾へ切り替えました。
どちらが優れているかで決めたわけではありません。
長女には、周囲と同じ進み方を求めるよりも、自分のペースで学ぶことを大切にしたい時期がありました。
その後の成長や目指すものに合わせて、その時々で必要だと思う学習環境を考えた結果です。
その判断の根底には、私が子供たちに伝えてきた勉強についての三つの考え方があります。
ただし、私は教育の専門家ではありません。
私の考え方や選択が正しかったと証明できるわけでも、同じようにすれば成績が上がるとお伝えできるわけでもありません。
この記事では、一人の親として子供の勉強にどう向き合ってきたのか、中学時代に公文を選び、高校2年生で進学塾へ切り替えた理由とともに振り返ります。
子供の勉強を見てあげられないことに悩んでいる親御さんにとって、わが家の経験や考え方のなかに、何か一つでも参考になる部分があれば幸いです。
子供の勉強を見てあげられないことに悩んだ時期もあった

「子供の勉強を見る」と聞くと、親が隣に座り、宿題を確認したり、分からない問題を教えたりする姿を思い浮かべますよね。
教えられるか、教えられないかは別として、私のなかには、そんな親の姿が理想としてありました。
子供が問題につまずいたときには、なぜ分からないのかを見つけ、理解できるまで教えてあげる。
学校の授業についていけているのかを把握し、必要なら一緒に復習する。
親なのだから、それくらいはしてあげたいという気持ちがありました。
しかし、実際に子供の勉強に関わってみると、親が問題を解けることと、子供に分かるように教えることは全く別物だと気づきます。
自分では分かっているつもりでも、子供がどこでつまずいているのかを見つけるのは簡単ではありません。
「どうして分からないんだろう」
「どのように説明すれば伝わるんだろう」
そう考えているうちに、自分の教え方が本当に正しいのか分からなくなることもありました。
親の説明と学校で習った方法が違えば、子供を余計に混乱させてしまうかもしれません。
そもそも、親の世代と今の子供たちとでは、学習内容や出題傾向が違います。私たちのころにはなかった科目が加わっていることもあります。
親が良かれと思って口を出しすぎることで、勉強そのものを嫌いにさせてしまう可能性もあります。
かといって何も言わずにいると、今度は「自分の勉強に関心がないのではないか」と、子供に思わせてしまうかもしれません。
教えようとしてもうまくいかない。
見守ろうとすると、何もしない親のように思わせてしまう。
私が悩んでいたのは、勉強を見てあげられないことだけではなく、親としてどこまで関わればよいのか分からなかったことでもありました。
そう考えるうちに、私は「子供の勉強を見ること」を、問題の解き方を教えることだけに限定しなくてもよいのではないかと思うようになりました。
親が答えを教えられなくても、子供が何に困っているのかを聞き、必要な学び方や環境を一緒に考えることはできます。
私自身、すぐに答えを見つけられたわけではありません。
それでも二人の子供と向き合うなかで、勉強を見ることと、勉強を教えることを、少しずつ分けて考えるようになりました。
「勉強を見る」と「勉強を教える」は同じではなかった

私は以前まで、子供の勉強を見ることと、勉強を教えることを、ほとんど同じように考えていました。
問題の解き方を説明する。
間違っているところを指摘する。
分かるまで一緒に考える。
そこまでできて初めて、親として勉強を見てあげたことになると思っていたのです。
しかし、親が無理に教えようとしても、必ずしもうまくいくとは限りません。
親子だからこそ、説明する側も聞く側も感情的になることがあります。
親は「これくらい分かってほしい」と思い、子供は「分からないから聞いているのに」と感じてしまう。
勉強を教えるつもりだったのに、いつの間にか親子で険悪な雰囲気になってしまえば、何のために一緒に勉強しているのか分からなくなります。
それなら、親がすべてを教えようとしなくてもよいのではないか。
次第に私は、そう考えるようになりました。
子供が何に困っているのかを聞く。
今の勉強方法が合っているのかを一緒に考える。
必要であれば、学校の先生や塾など、親以外の人に教えてもらえる環境を探す。
問題の答えを直接教えられなくても、親としてできることはあるのではないか。
私は「自分が直接教えることには限界がある」と、ある意味ではスパッと諦めました。
その代わりに、どうすれば子供たちが自分に合った方法で学べるのか、どのような環境があれば安心して勉強に取り組めるのかを考えるようになりました。
今になって考えてみても、教育者ではない親が、すべての教科を分かりやすく教えるのは簡単なことではありません。
それよりも、子供が分からないことを「分からない」と気軽に言えることや、困ったときに相談できることの方が大切なのではないかと思っています。
もちろん、親が教えることでうまくいく家庭もあるでしょう。
親子で一緒に問題を解くことが、楽しい時間になることもあると思います。
ただ、わが家では、私が先生の代わりになろうとするよりも、子供が自分に合った方法で学べる環境を考える方が合っていました。
勉強を教えることは、問題の解き方や答えを伝えること。
勉強を見ることは、子供が今どのような状態にあり、何を必要としているのかを考えること。
この二つを分けて考えられるようになってから、私は「自分がすべて教えなければならない」という思いから、少しずつ離れられるようになりました。
子供に親の考えを押し付けるのではなく、本人の気持ちを聞きながら一緒に考えることは、勉強に限らず、私が子育てのなかで大切にしてきたことでもあります。
その考え方の根底にある、子供たちと交わした約束については、こちらの記事で詳しく振り返っています。
関連記事:シングルファーザーになって子どもたちと交わした、たった一つの約束
そして、子供たちにどのような学び方をしてほしいのかを考えたとき、以前お世話になった方から教わったことを思い出したのです。
子供たちに伝えてきた勉強についての三つの考え方

大学時代の恩師から、学びや学習に関する考え方を教えてもらったことがあります。
その方の話を聞くなかで、私自身が納得し、二人の子供にも繰り返し伝えてきたことが三つあります。
もちろん、これは恩師の教えに私が共感したというだけで、すべての子供に当てはまる正解ではありません。
それでも、子供たちの勉強について迷ったとき、私が一つの判断基準としてきた考え方です。
決して詰め込みの勉強はしない
一つ目は、決して詰め込みの勉強はしないことです。
勉強には、理解するうえで最低限覚えなければならない知識があります。
漢字や英単語、計算方法など、繰り返し取り組まなければ身につかないものもあるでしょう。
そのため、暗記や反復学習そのものを否定しているわけではありません。
私が避けたいと思っていたのは、子供の理解や気持ちを置き去りにして、とにかく量だけをこなさせる勉強です。
無理に詰め込んでも、いつか限界が来ます。
何より、苦しいだけの勉強を続けていれば、最悪の場合、学ぶこと自体が嫌になってしまうかもしれません。
一時的に多くのことを覚えられたとしても、勉強そのものを嫌いになってしまえば、その後、自分から学びたいという気持ちまで失ってしまいます。
それは、とてももったいなく、寂しいことのように思えてなりません。
「勉強することは、楽しいことなんだよ」
「知らないことを知るのは、素晴らしいことなんだよ」
子供たちには、そう気づいてほしかったのです。
子供によって理解する速さも、興味を持つものも違います。
周囲と同じ速さで進むことよりも、まずはその子が理解できるところから、自分のペースで積み重ねていくことを大切にしたいと考えていました。
勉強は努力することや頑張ることが目的ではない
二つ目は、勉強を努力や我慢だけで続けるものにしてほしくないということです。
前述したように、勉強には大変なこともあります。
思うように問題が解けず、何度もやり直さなければならないこともあるでしょう。
目標をかなえるために、踏ん張らなければならない時期もあります。
だからといって、苦しみながら長時間机に向かうこと自体が、勉強の目的ではないと私は思っています。
昨日まで分からなかったことが、今日は分かるようになる。
解けなかった問題を、自分の力で解けるようになる。
知らなかったことを知り、見える世界が少し広がる。
私は子供たちに、そうした自分の成長を実感することを楽しんでほしいと伝えてきました。
努力した時間の長さよりも、自分が何を理解し、何ができるようになったのか。
そこに勉強する面白さを感じられれば、誰かに言われなくても、もう少し学んでみようと思えるのではないかと考えたからです。
学校や塾では勉強の方法を学んでほしい
三つ目は、学校や塾へ通うこと自体を、勉強の目的にしないことです。
少し極端な言い方かもしれませんが、問題を解いたり、教科書を読んだりするだけなら、家でもできます。
それでも学校へ通い、必要に応じて塾を利用する意味は、問題の解き方を教わるだけでなく、勉強への取り組み方を学ぶところにあると考えています。
分からない問題があったときに、どこまで戻って考えればよいのか。
間違えた問題を、どのように復習すれば身につくのか。
目標に向けて、何をどの順番で学べばよいのか。
一人では気づけなかった考え方を先生から教わり、周囲の人から刺激を受けながら、自分に合った学び方を見つけていく。
学校や塾には、そのための役割があるのではないかと思っています。
ただ授業を受け、出された課題をこなすだけではなく、いずれ自分から学びたいと思えることが見つかったとき、その学びを自分の力で進められるようになってほしい。
簡単には解決できない問題に出会ったときにも、どこから調べ、誰に尋ね、どのように向き合えばよいのかを考えられるようになってほしい。
学校や塾での勉強を通して、そのための練習をしてほしいと思っています。
それが、私が子供たちに望んでいたことでした。
この三つの考え方が正しかったのか、今の私にも断言はできません。
それでも、子供の成績だけを見るのではなく、その子がどのように学び、何を感じているのかを考えるきっかけにはなりました。
そして、長女が中学生になったときにも、成績を短期間で上げることより、自分のペースで学び方を身につけられる環境を優先したいと考えました。
その間、近所の学習塾や有名な進学塾での体験学習を繰り返しました。
その結果として最終的に選んだのが、公文でした。
中学生の長女に公文を選んだ理由

長女が中学生になったころ、近所の学習塾や有名な進学塾の体験学習に何度か参加しました。
体験した学習塾が悪かったわけではありません。
ただ、教材に沿って問題を繰り返し解き、決められた解き方を身につけていく授業が多いように感じました。
その問題を解くためには、その方法が正解なのでしょう。
しかし、私が求めていたのは、単に問題の解き方を覚えることだけではありませんでした。
「この問題は、どの部分の理解度を確かめるためのものなのか」
「何を理解できていないから、この問題が解けないのか」
長女がつまずいた原因を見つけ、必要なところまで戻りながら理解していく。
そのような丁寧なアプローチが感じられなかったことが、当時の長女には合わないと思った一番の理由でした。
もちろん、体験した塾の学習方法が間違っていたわけではありません。
その方法が合う子供もいれば、問題を数多く解くことで力を伸ばせる子供もいるでしょう。
ただ、そのころの長女には、周囲と同じ速度で問題を進めることよりも、自分が理解できていないところまで戻り、少しずつ分かることを増やしていける環境が必要だと考えました。
学年よりも理解度を優先する学び方にひかれた
公文には、学年や年齢だけで教材を決めるのではなく、本人の理解度に合わせて学習を進めていく独自の教育システムがあります。
これは、当時説明を受けた内容の受け売りではあります。
それでも、理解できるところから始め、自分のペースで少しずつ先へ進んでいく学習方法は、私が子供たちに伝えてきた考え方と合っているように感じました。
公文で主に学ぶ教科は、英語・国語・数学です。
幅広い教科を一度に学ぶというよりも、学習の基礎となる教科を、自分の理解度に合わせて積み重ねていきます。
私は、公文とほかの学習塾のどちらが優れているのかを判断したかったわけではありません。
長女にとって、どちらの学び方が合っているのかを知りたかったのです。
そこで、体験学習を終えた長女に尋ねたことは一つだけでした。
「どっちが楽しかった?」
成績が上がりそうなのはどちらか。
難しい問題をたくさん解けそうなのはどちらか。
有名な学校へ進むために有利なのはどちらか。
そのようなことではなく、長女自身がどちらの環境で学ぶことを楽しいと感じたのかを聞きました。
まずは、自分が分からなかったことを理解できること。
そして、理解できたことを楽しいと思えること。
私は、それが勉強を続けていくための第一歩だと考えていたからです。
問題が解けることと理解することは似て非なるもの
問題が解けたことと、その問題を本当に理解できたことは、似ているようで違います。
解き方を覚えていれば、同じような問題には正解できるかもしれません。
しかし、なぜその解き方になるのかを理解できていなければ、問題の形が少し変わっただけで、どうすればよいのか分からなくなることもあります。
その違いを分けるものの一つが、理解できたときに感じる「楽しさ」なのではないかと私は思っています。
「そういうことだったのか」
「だから、この答えになるのか」
そのように自分のなかで腑に落ちた経験があれば、違う形の問題に出会ったときにも、以前理解したことを応用しやすくなるのではないでしょうか。
よく「ピンときた」という表現を使いますよね。
私は、この「ピンとくる」という感覚は、偶然起こるものではなく、数多くの成功体験を積み重ね、一つひとつの理解を深めた先に生まれるひらめきなのではないかと思っています。
だからこそ、最初から難しい問題を数多く解くことよりも、まずは「分かった」「解けた」「楽しい」と感じられる経験を重ねてほしいと考えました。
「分からない」を自分の言葉で説明できるようになった
実際に公文へ通わせてよかったと思ったのは、長女が楽しそうに勉強するようになったことです。
それだけでなく、長女との会話の内容も大きく変わりました。
以前は、問題につまずいた理由を尋ねても、
「分からない」
「難しい」
という言葉が返ってくることが多くありました。
しかし、公文へ通うようになってからは、自分が何を間違え、どこをどのように修正したのかを、自分の言葉で話せるようになりました。
「ここまでは分かったけれど、この部分から分からなくなった」
「この考え方を間違えていたから、答えも違っていた」
そのように、自分が理解できていない部分を自分の言葉で説明できるようになったことは、特にうれしく、驚いた変化でした。
分からないことを自分の言葉で説明できれば、先生や周囲の人にも助けを求めやすくなります。
また、自分自身でも、どこまで戻って学び直せばよいのかを考えられるようになります。
私は、この変化に、公文へ通わせた意味を感じました。
ただ問題を解けるようになっただけではなく、自分が何を理解し、何が分からないのかを考える力が少しずつ身についていたからです。
長女が大学進学を目指すようになり、学校の先生になりたいという将来の夢を話してくれたときのことは、こちらの記事で詳しく振り返っています。
関連記事:シングルファーザーが見た希望|娘の一言が教えてくれた未来
公文にも限界はあると感じた
もちろん、公文の学習方法が、どのような状況にも対応できるとは思っていません。
本人の理解度に合わせて教材を進められることは、公文のよさです。
一方で、学習の進む速度が、本人の理解力や取り組み方に大きく影響されるという面もあります。
自分のペースで理解を積み重ねられる反面、目標に到達するまでに、どれくらいの時間がかかるのかを予測しにくいところもありました。
高校受験までは、公文で身につけた学び方を生かしながら、何とか進むことができました。
しかし、大学受験となると、本人の進捗だけに合わせていては、必要な学習が間に合わない可能性があります。
理解することを大切にする段階から、決められた期限を意識して学ぶ段階へ。
長女が高校2年生になったころ、私は学ぶ環境を切り替える時期が来たのではないかと考えるようになりました。
高校2年生で進学塾へ切り替えた理由

公文へ通うなかで、長女は自分が理解できていないところを把握し、それを自分の言葉で説明できるようになりました。
私が公文に期待していたのは、単に問題を解けるようになることではありません。
分からない問題に出会ったとき、自分がどこでつまずいているのかを考え、必要なところまで戻って学び直すこと。
公文での学習を通じて、長女はその土台を少しずつ身につけていったように思います。
高校受験までは、その学び方を大切にしながら進めることができました。
しかし、高校へ進学し、大学受験を考えるようになると、同じ学び方を続けるだけでは難しい部分も見えてきます。
大学受験には決められた期限がある
公文では、本人の理解度に合わせて教材を進めていきます。
理解できるところから始め、自分のペースで先へ進めることは、長女にとって大きな意味がありました。
一方、大学受験には試験日という、動かすことのできない期限があります。
その日までに必要な範囲を学び、志望する大学の入試に対応できる力を身につけなければなりません。
本人の理解を待ちながら自分のペースだけで進めていると、必要な学習範囲を終える前に受験を迎えてしまう可能性がありました。
理解することを大切にしながらも、これからは学習する速度も意識する必要がある。
私は、そう感じるようになりました。
もちろん、速く進めることだけを優先して、再び詰め込みの勉強に戻したかったわけではありません。
これまで身につけてきた学び方を土台にして、今度は期限のある目標に向かって、学習の順番や速度を考える段階に入ったのだと思います。
少し早いかもしれないと思いながら進学塾を選んだ
高校2年生になったとき、私は少し早いかもしれないと思いながらも、進学塾へ切り替えることを考え、娘と相談しました。
まだ高校生活の途中です。
大学受験に向けて本格的に動き始めるには、もう少し時間があるという考え方もあったでしょう。
それでも、長女にとっては、大学受験の直前になって急に学習方法を変えるより、時間に余裕がある段階で新しい環境に慣れておく方がよいのではないかと考えました。
公文で自分の理解度と向き合うことを学んだ長女が、今度は受験を意識したカリキュラムのなかで、どのように学んでいくのか。
どこまで自分の力で進み、どこで先生の力を借りるのか。
「公文で身につけた学び方が、進学塾でも通用するのかを試してみよう」
そう娘に投げかけてみました。
公文から進学塾への変更は方向転換ではなかった
公文から進学塾へ切り替えたからといって、公文での学び方を否定したわけではありません。
公文では、自分が理解できていないところを見つけ、分かるところから積み重ねていくことを学びました。
進学塾では、その力を使いながら、大学受験という期限のある目標に向けて、必要な学習範囲や速度を意識していく。
私のなかでは、二つは対立する学び方ではありませんでした。
公文で基礎となる学び方を身につけ、その次の段階として進学塾を選んだという感覚です。
大切なのは、同じ学習環境に通い続けることではありません。
そのときの子供が何を必要としているのか、目標へ向けて何が必要なのかを考え、自分で実践できるかどうかだと思います。
中学生の長女には、自分のペースで理解を積み重ねられる環境が必要でした。
高校2年生になった長女には、大学受験という目標から逆算し、期限を意識して学ぶ環境が必要になりました。
子供が成長し、目指すものが変われば、必要な学び方も変わります。
だから私は、公文か進学塾かという二者択一ではなく、長女の成長に合わせて、相談しながら学ぶ場所を変えていったという感覚です。
私の考え方が正しかったとは言い切れない
ここまで、私が子供たちの勉強について大切にしてきた考え方や、長女に公文を選び、その後、進学塾へ切り替えた理由を書いてきました。
しかし、私の考え方や選択が正しかったと、胸を張って言い切れるわけではありません。
私は教育の専門家ではなく、学校や塾で数多くの子供を指導してきた経験もありません。
地方の国立大学を卒業し、二人の子供を育ててきた一人のシングルファーザーにすぎません。
長男は、大学で学び続ける道よりも、体を使って働く道を選びました。
長女は、学校の先生になることを目指し、今も大学受験に向けて勉強を続けています。
二人が選んだ道は大きく違います。
だからといって、長女が大学へ進めば私の考え方が正しかったことになり、長男が勉強とは違う道を選んだから間違っていたことになるとは思っていません。
そもそも、子供がどの学校へ進み、どのような仕事に就いたかだけで、親の関わり方の正しさを判断することはできないでしょう。
それでも親としては、迷います。
もっと厳しく勉強させた方がよかったのではないか。
もっと早く進学塾へ通わせていれば、違う結果になったのではないか。
本人のペースを大切にするという考えが、ただ遠回りをさせただけではなかったのか。
今でも、そう考えることがあります。
子供のために選んだつもりでも、その選択が本当に子供のためになったのかは、すぐには分かりません。
何年かたってから、「あのときは別の方法もあったのではないか」と振り返ることもあります。
ただ、子供の成長を、成績や進学先だけで判断したくないという思いは変わっていません。
長男が自分で進む道を選んだこと。
長女が分からないことを自分の言葉で説明し、自分の目標に向かって学んでいること。
どちらも、二人が自分で考え、自分なりの答えを出そうとした結果です。
私が子供たちに望んでいたのは、親が用意した正解どおりに進むことではありませんでした。
自分が何を望んでいるのかを考え、分からないことに向き合い、必要なときには誰かに相談しながら、自分の道を選べるようになってほしかったのです。
そう考えれば、私が大切にしてきた三つの考え方は、成績を上げるための教育方針ではなかったのだと思います。
学ぶことを嫌いにならず、自分の成長を感じ、自分に必要な学び方を考えられるようになってほしい。
その願いを子供たちへ伝えるための、私なりの考え方でした。
それが正解だったかどうかは、今も分かりません。
ただ、分からないからこそ、子供の様子を見ながら、本人と話し合い、そのときにできる選択を考え続けてきました。
子供の失敗や成長を通して、親である私自身が教えられたことも数多くあります。
長女の姿から「子は親の鏡」という言葉の意味を考えたときのことは、こちらの記事で詳しく振り返っています。
関連記事:シングルファーザーになって気づいた|「子は親の鏡」と言われる理由
親が子供の勉強を見てあげるというのは、正しい答えを用意することではなく、このように迷いながら一緒に考えることなのかもしれません。
そこに正解や不正解があるとするならば、子供たちが成長し、いつか自分の人生を振り返ったときに、「そこそこ楽しい人生だったな」と感じてくれれば、それが正解だったのかなと私は思います。
あるいは、いつか自分の子供を持ったとき、私が伝えてきたことを少しでも思い出してくれたなら、それもうれしいことです。
まとめ|子供の勉強を見ることは一緒に学び方を考えること
子供の勉強を見てあげたいと思っていても、親がすべての教科を教え、分からない問題を一つずつ解決してあげることは簡単ではありません。
私も以前は、問題の解き方を説明し、間違いを指摘できて初めて、子供の勉強を見たことになると思っていました。
しかし、二人の子供と向き合うなかで、勉強を見ることと、勉強を教えることは同じではないと考えるようになりました。
親が問題の答えを教えられなくても、子供が何に困っているのかを聞くことはできます。
今の勉強方法が合っているのかを一緒に考えることもできます。
必要であれば、学校の先生や塾など、親以外の人に教えてもらえる環境を探すことも、親にできる関わり方の一つです。
私が子供たちの勉強について大切にしてきたのは、次の三つでした。
- 決して詰め込みの勉強はしない
- 勉強は努力することや頑張ることだけを目的にしない
- 学校や塾では勉強への取り組み方を学んでほしい
中学生の長女には、自分の理解度に合わせ、自分のペースで学べる公文を選びました。
公文へ通うなかで、長女は自分が何を理解できていないのかを把握し、それを自分の言葉で説明できるようになりました。
そして高校2年生になり、大学受験という期限のある目標が見えてきたところで、進学塾へ切り替えました。
これは、公文での学び方を否定したからではありません。
公文で身につけた学び方を土台として、今度は目標から逆算し、学習の順番や速度を考える段階へ進んだという感覚です。
子供が成長し、目指すものが変われば、必要な学習環境も変わります。
大切なのは、公文と進学塾のどちらが優れているかを決めることではなく、そのときの子供が何を必要としているのかを、本人と一緒に考えることではないでしょうか。
もちろん、私の考え方や選択が正しかったとは言い切れません。
今でも、ほかにできることがあったのではないかと迷うことがあります。
それでも、親が用意した正解に子供を当てはめるのではなく、本人の気持ちを聞きながら、その時々に合った選択を一緒に考えてきました。
子供の勉強を十分に見てあげられないと、不甲斐なさや申し訳なさを感じる親御さんもいると思います。
しかし、問題の解き方を直接教えられないからといって、子供の学びに関われないわけではありません。
子供が分からないことを安心して話せるようにすること。
必要なときに相談できること。
その子に合った学び方や環境を一緒に考えること。
それも、親だからこそできる大切な関わり方だと私は思っています。
シングルファーザーとして子供たちと歩んできた生活や、仕事、家事、進路などの実体験については、こちらの記事にまとめています。
関連記事:シングルファーザーの子育てと生活|父親一人で歩んだ奮闘記
私にとって「子供の勉強を見る」とは、すべての問題を教えることではなく、子供の学び方を一緒に考え続けることだったのだと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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